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1人で自由連想法をする方法

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自由連想法はフロイトが考案した心の深部にまで到達するための方法だ。

1人自由連想法との戦い

自由連想法はクライエントを寝椅子に座らせて、頭の中に思い浮かぶものを全て話すという方法である。言いたくないこと、隠しておきたいことも全部話すようにする。
僕はこれを1人自室でやれないかとずっと試行錯誤してきた。最近少しだけ形ができ始めたので記録しておく。具体的な実践方法も書いているが別の記事でまとめる。1人自由連想法はおそらく、いわゆる「治療」のためのものではない。じゃぁ何かと言われればかなり難しい。けど何か大事な営みのように思う。しかし、少なくとも他者という他者が1人自由連想法には存在しない。そのため転移を扱う解釈がない。1人自由連想法が上手く行かなかった理由はまさに他者がいないことであった。あなたを解釈する他者がいないのだ。それをどのように工夫していくかが長年の課題であった。特に何も考えずに試してみたい方は具体的方法だけみてもらって構わない。1人自由連想が上手く行く為の構造や工夫について適当にかきまくっているので、物好きな人は是非目を通してほしい。そしてここでは精神分析ではなく、自由連想法という方法に焦点を当てているので、精神分析で言われる実践的な部分と必ずしも僕の書いている自由連想法についての説明は一致しないし、実践は少なくとも「治療」が目指されている。僕は治療以外の使い道を模索する中で1人自由連想で遊んでいるだけなので、その辺の批判とかはやめて欲しい。

少し1人自由連想を理解する(自由連想法と瞑想の違い)

僕は1人自由連想法と瞑想は構造的にはかなり近い事やってるなって思う。けど目指す目的が全く違う。そこで1人自由連想のイメージを掴むためにも、1分間ある手続き(ヴィッパーサナー瞑想)を行ってみよう。
まずは横になり、目を閉じる。お腹に利き手を置いて、しばらくリラックスする。呼吸をするたびにお腹が動いているのが分かる。この動きに意識を集中させる。更に息を吸った際にの腹部の膨張、収縮に対し、心の中(内言)で「膨張」や「膨らむ感覚」、「収縮」、「凹んだ」など、自分がぴったりだと思う言葉を当てる。この状態を、1分でいいので続けてみる。
すると数秒もすれば、イメージが湧いてきたり、内言が湧いてきたりする。昨日の晩御飯や、明日の天気、色々思い浮かぶ。意識的にコントロールしようという努力とは裏腹に様々なものが浮き出てくる。それでも腹部の内感に意識を向け、また内言も膨張と収縮に伴うものに管理しても、なお人の心的な活動は止むことはない。
様々な雑念が浮かんでくるのが体感としてわかる。雑念に意識が気づいたら、「雑念」とラベリングし、お腹の感覚に意識を戻す。
この手続きを続けていけば瞑想になる。瞑想によって呼吸による腹部感覚以外の要素(身体の痒みや、イメージ、内言や、雑念、外部の刺激)から距離を取っていく。自己意識は呼吸による腹部の感覚(身体内感)を意識することによって、外部刺激(世界の煩悩)から意識を自由にしていく。
自由連想法においても、外部の刺激をなるべく受け取らないようにするというのは同じである。違うのは「自由連想法では、より積極的に自身の中の欲動(煩悩?)に触れていく」ことを目指す。
欲動は定義の難しい概念だが、ひとついえることは、外部刺激ではなく、内部刺激だということである。外部刺激による自己へのストレスは、その外部刺激からの遠ざかれば、自己へ影響しなくなる。しかし自己内部の刺激によるストレス、つまり欲動からは逃げることすら出来ない。外部刺激に対する逃避のような手段では、自己内部からの刺激、欲動からは逃れることができないため、独特の解消の仕方を取る。それが充足(満足)である。欲求不満状態の自己は独自の方法で満足を得て解消する。しかし欲動そのものを消失させるわけではない。つまり何度も何度も自己を襲うことがあるのであり、それがいわゆるリビドーである。フロイトは欲動として性欲動、攻撃欲動、自己保存欲動などを発見したが、これから自由連想を行おうと思ってるあなたはこれらを参考にすることはあっても、縛られてはいけない。欲動という得体の知れないものに、かろうじて言語によって捕まえたものがこれらである。あなたがこれから出会う欲動がこれらと相当するものであるかは分からない。ただ欲動それ自体が、生物として本能に寄り掛かり発生したものであるなら、やはり生物的なエネルギーから始まったものであるとは思う。ある精神分析家は確か精神分析とは「セックスしないと決めた2人がどのようなことを語り得るか」であるといった。人は怒っているとき、怒りたくて怒っている時がある。とてつもない怒りが込み上げ、お互いが罵り合い、傷付いた。しし喧嘩が終われば何に怒っているのか分からない。欲動は充足するのである。自由連想ではこの満足を出来るだけ遠ざけ、欲動を解消することなく、考え続けることが求められている?。

基本的に瞑想も自由連想法もつらい。
世間で瞑想が効果的に用いられているのは精々5〜10分の間である。私が考えるに殆どの場合、5〜10分瞑想によって欲求不満状態にし、終わった後に発散するまでが、世間で言われている瞑想の効能である。
仮に50分、腹部の感覚にだけ集中し続け、その間に思い出に耽ることも、寝ることも、考えることも、イメージすることも、感じる事も放棄することを求められるなら、それは居心地の良いものだろうか?
自由連想法では、瞑想では破棄される煩悩を洗練させ、生きる為の濃縮されたエネルギーとして積極的に活用することを目指す。
欲動そのものは、言語でもなければ、イメージでもなく、表象でもない、蠢く何か、のようなものだ。だから直接欲動を掴むことはできないので、言葉で捕まえてみるしかない。だから自由連想法は言葉で行われる。

自由連想の1つの目的は、自分の思考の文法を出来る限り知ることである。
私たちは、外国語に触れるときは文法を意識できるのに、母国語になるとたちまち不可能になる。なぜなら外国語は自分にとって外部であり他者であるからだ。だが私達にとって日本語は私達に浸透し過ぎているために、その文法を意識することができない。これと同じことが思考にもいえる。瞑想からも分かるように、私たちに浸透している日本語の言語システム
は,私たち自己意識がどれだけコントロールしようとしても全く上手くいかない。つまり言語システムは言語システムで意識とは独立に勝手に内言(思考)を産み出しているのである。
瞑想が示すように、どれだけ意識の統制能力によってに努力的に思考を制限しようと、制限することはできない領域が残っている。思考システムには思考を産出する文法構造のようなものがあるはずであり、それを浮き彫りにしたいのだ。

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